wonder PHOTO POJECT

 

wonder「ボクの左側」

it was "dramatic every day".
 
  

scene#15 金木犀

染み。
 
そう、これはたぶん珈琲の染み跡。彼女がいつも持ち歩くあの本には、数枚にわたって茶褐色に変色したページがあった。それは彼女が溢してしまったものなのか、それとも・・・。彼女は本の内容ではなく、これを見て涙していたのかもしれない。まるで風が流れるようについたその跡は、そこに印刷されている言葉とは別に何かを物語っているように思えた。
 
けれど、結局は彼女の涙の意味を理解することは出来なかった。
 
あれから数ヶ月が経って、あの時ボクが宣言したとおりに、彼女へこの本を返す頃には周りは赤や黄、茶色が街を包み込む季節になっていた。
 

 
ボクは借りていた本を返すため、駅の連絡通路にある大きな絵の下で彼女と待ち合わせた。思い返せば「ボクが一時間前に待ち合わせ場所に来て、彼女は一時間遅刻して来る」というスタイルが始まったのはこの日からだった。遅刻してきた彼女はボクの背後から近づき、音楽を聴きながら待っているボクのイヤホンケーブルを引っ張って、
 
「ねえ、ちょっと歩かない?」
 
と、彼女はボクの手を引き公園通りへ向かって歩き出した。
 
しばらくすると大きく特徴的な形をした競技場が見えてくる。それを横目に更にまっすぐ歩いて行くと公園へとつなぐ大きな歩道橋があらわれた。彼女は階段を登り終えるとパッと手を離し、歩道橋に描かれている曲線に沿って大きく手を広げながら走り出した。ボクはそんな彼女を横目に、歩道橋の下を走る車を眺めながらユックリと歩く。
 

 
「もう少し早い時期だったら金木犀のいい香りを楽しむことができたのにね。」
 
たしか小さなオレンジ色の花をたくさんつける木、だったかな。実家にも植えてあって夏が終わって涼しくなった頃にいい香りを漂わせていた。
 
「私、あの甘い香り、好きなんだ。あのオレンジ色の花も、好き。」
 
と、言って目を閉じ大きく息を吸って空を見上げると、静かにユックリと口から息を逃した。あるはずのない金木犀の香りを感じたかのような表情(かお)をする彼女。隣でそれを見ていたボクも、ふわりと彼女の髪を撫でた風から金木犀の香りを感じた、そんな錯覚をおこしていた。
 
「でもね・・・金木犀って、陽にあたりすぎても陽にあなたらなすぎてもダメなんだって。なんだか私に似ている。だから、いつも横にいて。そして大切にして。そうしてくれなきゃ私、ダメになっちゃうんだからね。」
 
そう言うと彼女はまた走り出した。 
 

休日の公園のベンチはまるで椅子取りゲームで、ボクらは遊歩道をぐるぐると歩きながらベンチが空くのを待っていた。彼女はそれを苦にもせず、むしろ楽しんでいた。鼻歌交じりで歩く彼女は本当に椅子取りゲームをしている子供のように、ベンチが空いた瞬間に飛びつくんじゃないかと心配になるほどだ。
 
やっと座れたベンチはイチョウの樹々に囲まれた場所で、暖かい黄色の光に包まれていた。彼女は「良い場所がとれたね」と満足そうに言って、伸ばした両足をバタバタとさせていた。まるで尻尾を振って喜ぶ犬のよう。
 
ボクは忘れないうちに、と借りていた本をバッグから取り出し彼女に渡すと、彼女はページをペラペラとめくって
 
「ねえ、この珈琲の染み、まるで、ほらっ、このイチョウの樹みたいでしょ?」
 
と言った。ボクは「風」のようだと思ったその染みを撫でながら、いつものクシャっとした笑顔を見せる彼女。そして
 
「ねえ、あなたは気づいていないかもしれないけれど、私、あなたに告白したんだからね。」
 
この瞬間から、彼女の隣はボクの居場所になった。そしてボクは彼女を大切にすることを許されたんだ。

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